国立公文書館で2019年1月26日~3月9日まで開催している特別展示「温泉〜江戸の湯めぐり〜」を見に行ってきました!
色々な展示があるなかで、今回は第1回、湯治願の文章から読み取れる事実と、私の想像を書き連ねたいと思います。ちなみに、私の想像の部分もかなりありますのでご了承ください。また、私は歴史初心者ですので、おかしな表現、理解もあるかもしれませんが、ご指摘いただけますと幸いです…!
湯治願(とうじねがい)とは?
江戸時代には関所があって、よその藩への移動が難しかった…そんなイメージがありますよね。確かに通行手形はなかなか手に入らず、荷物の検閲などもあったようです。
しかしそんな関所を抜けるためには
伊勢参り もしくは 湯治
を目的にすれば、割と移動しやすかったのだそうです。どんな申請をすれば許可が降りたのか、細かいところはわかりませんが…
庶民はそれで湯治に行くことが可能だったようです。しかしその一方で、幕臣や大名といった、いわゆる政治に対して力を持っている人々はしっかりと幕府へ湯治願というものを提出していたのだそう。
丁寧にお礼をする意味
その一例がこちら。これは伊勢崎藩の前藩主、酒井忠恒が、湯治をするために幕府へ申請し、許可が降りたことに対してお礼をしたためた文章です。このケースは自分自身が湯治に行くのではなく、伊香保温泉の汲み湯(お湯を運んでくること)を申請しています。申請を出してお礼をする…会社でのメールのやりとりを見ているようで、現代も一緒だなーなんて親近感湧きますね(笑)
なぜ幕臣、大名の湯治には許可が必要だったのでしょうか?
単刀直入にいうと、謀反の防止だったようです。大名クラスが移動するとなると、それに伴って多くの人や物も一緒に移動することになります。すると以下のような懸念が御上にはでてくるわけです。
「こいつ同じところにばかり湯治に通っているな…ここの藩主と結託して謀反でも起こそうとしてんじゃねーのか」
ということは、繰り返し温泉に行きたくても、その「繰り返し」によってあらぬ疑念を持たれてしまうかもしれない。そりゃこのくらい丁寧にお礼をしないと、自分だけでなく酒井家がとんでもないペナルティを喰らう可能性があるわけです。このあたりも「有給取ったらきちんとお礼しないと次回取りづらい」みたいなのと似ていますね。
また、汲み湯というのも大きいのかもしれません。お湯を持ち帰るための器、当然木製でしょうから、何かを隠して持ち運ぶにはぴったりですよね。もしかしたらなかなか許可が降りづらい申請だったのでは…だから丁寧にお礼をした、という推測もできます。
岩倉具視の危機一髪湯治
明治期にはいっても、やはりお国の重要な役職につく人や官僚は、湯治にいくためには許可が必要だったようです。
教科書に出てくる岩倉具視。彼が明治14年に湯治願を提出した記録が残っています。頭が痛くて3週間、有馬温泉に湯治に出かけました。岩倉具視は政府内でも重要な人物。ボディガードなど大所帯で出かけたのかなー、地元の人が大騒ぎしたのかなー、なんて想像しましたが、調べてみてもどんな滞在をしていたのか、情報が出てきませんでした。泊まった宿とか大々的に宣伝してもよさそうですよね。もしかしたらかなりお忍びな感じだったのかもしれません。
国立公文書館の担当のかたがお話してくださったのは、明治14年という年に大きな意味があるのでは、とのこと。この時期日本は憲法の策定でもめており、この年には「明治14年の政変」という政治事件が勃発します。超一言でいえば、大隈重信が失脚した事件です。そもそも岩倉具視は憲法の策定にはあまり気乗りしておらず、大久保利通の度重なるお願いがあって重い腰を上げた、という背景があるのですが…大久保利通は明治11年に暗殺され、重要なサポート役を失っている状況でした。
大久保利通亡き後、岩倉具視を支えたのが大隈重信と伊藤博文。めちゃお世話になっているこの二人が憲法策定の方法についてもめており、かつどちらかにその役割を決めなければいけなかった… そこでちょっとしたいざこざがあり、サポートしていた大隈重信が失脚したわけですね。ちょうど心労がたたっていた時期なのです。現代に暮らす私たちでさえ、仕事で似たような状況になったら温泉にでも行って、現実逃避したくなるわな…
加えて岩倉具視自身も明治7年に襲撃をうけ、暗殺されかけたばっかり。こういう決断に身の危険すらも感じていたことでしょう。そんな政局が不安定な状態で休暇…もしかしたら現実逃避ではなく、この政変から逃れるために湯治という名目で身の安全を確保したのではないか。そんな推測ができるとのことでした。
温泉滞在が自身の危機から逃れる方法でもあった…そう考えるといまって平和ですよね。自分の身を守るために温泉に行くなんて発想ないですからね。現実逃避じゃないんです。
以上が公文書館のかたがこの湯治願から読み取った岩倉具視の湯治です。
岩倉具視は草津温泉造成にちょっぴり関係があった?
頭が痛くて湯治をした岩倉具視。これは明治14年の政変から身の安全を確保するためではないか、という一つの推測を紹介しました。続いては私が岩倉さんの人生をざっと調べて感じた、また別の推測をお話させていただきますね。
実は岩倉さんは有馬温泉で湯治をした2年後、咽頭癌(のどの癌)で亡くなっています。明治14年の政変を避けるため、理由としては可能性はあるのでしょうが、本当に頭が痛かったのでしょう。現代なら休暇ではなく、休職して治療に専念すべき事案だった、のかもしれません。
とはいえ、岩倉さんの政治的ポジションの重さ、忙しくて入院している暇なんてないのです。仮に入院したら「あいつは後先長くないっぽいぞ」と、また政局が乱れるような憶測が流れるかも。加えていまほど癌の早期発見はもちろんできません。湯治することができうる最大限の療養だったのかもしれませんね。
そんな超重要人物がどうやら病気らしいと知った時の最高権力者、明治天皇は、当時最高の腕を持っているであろう東京大学医学部の教授に「岩倉を診ろ」と勅命を出します。やってきたのは…草津温泉の父、エルヴィン・フォン・ベルツ!! 明治11年にベルツは草津温泉を訪れており、明治13年には「日本鑛泉論」を執筆。政府主導で温泉を医学的に研究し活用すべき、と説いています。そう、日本の温泉研究へ熱を込め始めた時期と被ってくるのです。
温泉での療養が有効であると研究を進めるなか、勅令で呼び出されてきてみたら、湯治をしたにもかかわらず衰弱している患者。これを診て、ベルツさんは何を思ったんでしょうね…もっと温泉の研究が進んでいれば、結果は多少違った、そんな思いがあったかもしれません。岩倉さん以外にも湯治にかかわった患者はいたのでしょうが、彼以上に、生きていたら日本国に影響を与えた人物はいなかったことでしょう。
そのあとベルツは草津に6,000坪の土地と温泉を購入し、医学を飛び出し、まちを作り始めます。異国の地で。とんでもない熱量です。岩倉さんがこの熱量の一助になったのは想像に難くないですね。みなさんはこの意外なつながり、どう捉えますか? 草津温泉に行ったときは、近代日本の礎をつくり、草津温泉を形成する意志の一つになった(かもしれない)、岩倉さんのことを思い出してみてくださいね。
思い出してください、といってもどんな人かイマイチわからないと思いますので、興味あるかたはwikipediaで入門してみてください。
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