現代人はめちゃくちゃ忙しいです。
朝から晩まで仕事のことや家庭のこと、お金がない、子育て、介護、家のローン、果ては夕飯どうする、明日着る服は、あの人のお誕生日プレゼント、何時までには寝ないと、そして朝は何時に起きないと……
自分がどう生きたいか、なんていう、ボヤーッとしたことを考えるまえに、日常にはやるべきこと、やらないといけないことあふれています。自分の将来、自分自身のこと、考えている余裕なんて、日常にはありません。いっぱいいっぱいな状態では他人を思いやったり、目の前にいる人の気持ちを汲み取ったり、なかなかできないものです。
いろいろといっぱいいっぱいになったとき、ふと口から出てくるのは「温泉行きたい…」ではないでしょうか? でもこの「温泉行きたい」、ガンガン観光してガバガバ酒飲んで、いっぱいいっぱいなことをいったん忘れているだけなのでは………(もちろん悪いことではありません!)。温泉から帰ってきて、いっぱいいっぱいの状態に再度直面するのがまたきつい…! 温泉に行ったところで根本的な解決にはなっていないように思います。
みなさんは湯治という温泉滞在法をご存知でしょうか。この言葉、現在は長期間温泉地に滞在し、質素な食事、適度な運動、決まった時間に温泉にはいって病気を治す。そんなイメージが強いと思います。
私は湯治文化が残る温泉旅館で働き、その文化を間近で見てきました。そこで見たお客さんは事前に大型のモニターを部屋に郵送してほぼ部屋にこもり、気が向いたら散歩に出かけて温泉にはいる、という、私がイメージした湯治とは真逆の滞在をしていました。「きちんと温泉にはいっているわけでもないし、食事に気を使っているわけでもない。これ湯治?」と思いましたが、そのお客さんは毎年泊まりに来ていて、形はどうあれ、喜んでいること、そしてその人自身のなかでなにかプラスに働いていることは間違いありませんでした。
これを見て私は、湯治は考えているよりはるかに自由なもので、温泉にはいるだけでなく、滞在そのものが重要、と考えました。そして多くの温泉地を取材するなかで、一つの結論にたどりつきます。
湯治とは、非日常の空間で自分自身と対話する時間をとり、ありたい自分の生き方を確認することなのでは? これが湯治で大切なことならば、非日常の空間を演出し、自分自身と対話をする時間をとり、風呂を提供できれば、都会でも日常から距離を置いて、不安を解消、よりよい日常生活を送れるのではないでしょうか。
都市部には昔ながらの銭湯、商店街があります。これは温泉地に共同浴場と温泉街があるのと同じこと。知らないまちの銭湯、商店街が「湯治をする」という意識づけによって非日常に、湯治場に変わりうるのです。そこで自分と対話する時間を、意識して取る。湯治の本質は都会でも再現できるのです!
最後にまとめると、都市湯治はいっぱいいっぱいな現代社会で生きる私達が、より自分らしい生き方を、参加者それぞれが考えるための時間を提供するイベントです。
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