なぜ私が都市部での湯治を推奨するのか。
その答えこそが湯我の境地。私が湯治場で拾った「入浴の低血圧状態を活用した思考法」です。これは湯治においてとても重要なことなのですが、実は湯治場でなくても、湯船さえあればその力の一部を引き出すことができちゃいます。
そんな湯我の境地、まだまだ未知の部分が多いのですが、解明されている部分をお伝えしたいと思います!
湯我の境地とは
湯我の境地とは、入浴の血圧変動を利用した思考法です。
通常、湯船にはいると血圧が上がります。熱の刺激で血管が収縮すること、そして水圧により血管が収縮するためです。血圧は上昇したのち、ゆっくりと下降していきます。この血圧が低下した状態は、いわばぼーっとした状態、思考力が低下した状態です。この状態では細かいことを考えるのが難しいです。
例えば、家に帰ったら洗濯物を取り込んで、食事の支度をして、ビデオを録画して、仕事の支度をして…こういった細かな段取りを組むのは向いていません。しかしその逆に、複雑なことを頭から除外して、ものごとを単純に考えることができる、と考えています。
例えば自分はIT企業にはいりたい、でもなんで? はいってからどうしたいんだっけ? その後はこんな人生をおくりたいなぁ…この思考のなかに、そもそもIT企業にはいれるかな…という不安、否定まで視野に入れることなく考えることができるのです。要は本来の自分の気持ちと向き合える状態といえます。
自分自身の目標、課題、行く先を見据えなおしたり、目標に対してのしがらみや、できない理由を排除して考えることができる。そんな頭の状態が、湯我の境地です。
名前の由来
鳴子温泉で修業中、私の中で解決すべき課題がありました。「本当にいい温泉とはなんなのか」です。これを日々自分に問いかけてきたのですが、イマイチしっくりくる答えはありませんでした。
▲実際に湯我の境地が生まれた、東鳴子温泉、大沼旅館の陽の湯▲
ある日日課の風呂掃除を終えて浴室全体を見てみると、陽の光が差し込み、水面がキラキラと妙にきれいで、ふと一番風呂にはいるか!という気持ちになりました。湯船にはいってみると超適温。お湯張りしたての湯船の特徴である泡付きもあり、掃除で汗をかいた体にはめちゃくちゃ染み渡ったのです。
「あー、自分で掃除して適温にお湯張りした湯船が、自分にとって本当にいい温泉なんだ」と気が付いたときには頭のなかで様々なアイディアが爆発してきました。「本当にいい温泉はなんなのか」という問題に対して、源泉かけ流しとか、どういう頻度で換水しているのか、成分がどうなのか、雰囲気の良しあし……自分の気持ちではない、まわりから評価されていることに縛られて、ただ自分でめんどくさくしていただけだったんだな、と気が付きました。これが物事を単純化して考える湯我の境地の原点です。
その時は名前はまだついていませんでしたが、「無我の境地」という言葉のイメージと近いなと思いつつ「思考のうえで得るものがあることだから、無ではないよな」という思いから、湯船のなかに存在するのは湯と我だけ。ということで、この状態を「湯我の境地」と名付けました。湯我の境地にはいることを「湯我の境地に至る」と表現し、慣れてくると略して「至る」と呼んだりもします。
話の本流からは逸れますが、仏教の言葉で「瑜伽(ゆが)」という言葉があります。これが何かというと
瑜伽(ゆが)は、仏教におけるサンスクリット語「yoga योग」の音写語で、感覚器官が自らに結びつくことによって心を制御する精神集中法や、自己を絶対者に結びつけることによって瞑想的合一をはかる修行法をいう。最近の心身の健康法としてのヨーガもこれに由来する。 wikipediaより
どうやら私達がよく知るヨガに深く関わりのある言葉のようですね。湯我の境地という言葉そのものに宗教的な意味合いはまったくありませんが、精神集中法として近いものはあるのかもしれません。そう考えると偶然ですが近い名前が付けられたことにご縁を感じますね。
どうやって至る?
湯我の境地に至るためには血圧の変動が重要です。近年、安全な入浴のためにぬるめのお湯が推奨されがちですが、私は敢えて42~43度の入浴をオススメします。湯船にはいってしばらくして、心臓の音が聞こえてくるくらいがベストです。入浴時間は各自の体調によりますが、長時間の入浴は立ち眩みなどの原因になるほか、体力を消耗するため、適度な時間で切り上げ、繰り返し至るほうが効果的、そして安全です。
※至るにあたって注意すべきこと
- 意識が遠のくレベルまでは絶対に行ってはいけません。この状態ではそもそも思考ができません。
- 入浴前にしっかりと水分を補給しましょう。ぬるめの入浴よりも汗をかきます。
- いきなり湯船にはいるのではなくかけ湯、体を洗うなどして温度にある程度慣らしましょう。
- 心疾患をお持ちのかたは、様子を見ながらおこないましょう。
- 湯船から出ると水圧が一気になくなり、脳への血流量が下がります。一度湯船のふちに腰かけてからゆっくりと立ち上がりましょう。
- 入浴後に水浴、休憩をしっかりとるとととのってしまい、思考というよりはリラックスの方向にいきますので、水浴は控えたほうがいいです。
- サウナで至れるかというと、私はイマイチです。水圧の効果が重要なのかもしれません。
至ったら何をする?
一番手っ取り早いのは、まず思い浮かんだことを掘り下げることです。低血圧状態でまず頭に浮かんでくること、それはよほど興味があることか、かなり差し迫ったことであるといえます。
オススメしたいのは、都市湯治で開催している自由参加イベントで、琴線に触れたものを掘り下げて考えることです。直前に印象に残ったことはいま最も熱量のあること。その状態で思考すると、日常を変えるきっかけとなる何かを拾える可能性が高いです。
あとは、日常抱えている課題や問題について考えることも効果的です。湯我の境地、そして銭湯という非日常で日常を考えると、普段とは異なる切り口、俯瞰した目線で課題を捉えることができ、意外と単純な解決法が見つかったりします。
考えたことに対して「なぜ?」と問いかけることも効果的です。突き詰めると普段考えることのない自分自身と向き合うことができるはずです。普段考えない、生きること死ぬこと、なんてテーマもいいでしょう。
浴室を出てからも重要
湯我の境地で拾ってきたものは、いわば荒削りの原石。それを磨くのは十分な思考力のある湯上り後の時間です。湯我の境地から脱した後でも「勢い」みたいなものがあります。その勢いは非日常のなかだけにあり、ある程度のかたちにならないと日常に持ち帰っても実行することが難しいです。そのため、湯治町にいるあいだに考えをまとめることをオススメします。
湯我の境地の根本はこれです。これをサポートするのがイベント「都市湯治」であり、体験したイベント、知り合った人々が思考を加速させてくれます。
最後に…あくまでも湯治の入門に過ぎない
そして、お気づきかもしれませんが、湯我の境地は使い慣れれば私が企画しているイベントに参加しなくたって、近所の銭湯でも至ることができます。これができるようになると、実際の湯治場にいった時に「なにもなくて退屈」「やることがなくてつまらない」ということがなくなります。本当の意味で湯治ができる体質が完成したといっていいでしょう。
湯治場で体験する本当の湯治は、都市湯治とは比べ物にならない至り方です。私はこれを湯我の境地という非日常を日常化し、本来の日常を非日常化した状態、湯我の極致と呼んでいます。「湯我の極地に達する」という言い回しをします。
忙しくて自分自身がなんなのかわからなくなってしまう現代、この湯治という手段が救いの一つであると本気で思っています。ぜひこの考え方を意識して入浴してみてください。そして都会でできる限り湯治を再現した都市湯治のイベントにも参加してみてくださいね。
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